楽知会・・・石光宗眞表千家茶道・茶事教室 (つくば教室・水戸教室)

つくば と 水戸 で表千家のお茶の教室を運営する 楽知会(主宰  石光宗眞)のブログです。 初心者にも、上級者にもご満足いただける本格的な茶道教室を目指しています。 楽知会が取り組む お茶のお稽古や、お茶事関係の情報を掲載していきます。

放下着

窮地を救う禅語の効用

ゥッモー! 厄年だの 八方塞がりだの 年回りによる不運・不幸なんて 今まで意識したことなかったのに~  今年の私が八方塞がりというのは知っていましたが、 それって 南・北・東・西 + 南東・南西・北東・北西の八方が塞がっているっていう意味ですよね???  いざとなったら 南南東や北北西あたりの空いた所から這い出せばよいと考えていましたが、甘かった!  密閉容器に閉じ込められて 空気穴さえ見つけられない状態って 本当にあるんですね(*_*)  しかも今年に入って3度目。  まだ年明けから1カ月少ししか経過していないことを考えると、 難題の出現頻度が やたら多過ぎやしませんか?

 

こういう時どうするか・・・前例(禅語集)にあたれ・・・です

  

我が身に降りかかった難題を禅問答に重ね合わせてみます。  真面目なのか ふざけているのか 何が何だか訳のわからない問答にお知恵拝借。 

 

 

禅語の効用

 

茶禅一味という言葉があります。  山上宗二記に「茶道は禅宗より出たるによりて  僧の行を専らにする也」という一文があるそうです。  確かに歴代家元は大徳寺に参禅得度していらっしゃいますし、 茶掛も禅語が中心です。 

しかし市中にあってお茶を楽しみ 折々に非日常の世界に遊ぶだけの我々は、 参禅の経験すらほとんどなく  茶道と禅が同根であると殊更に意識しているわけでもありません。

でも蓄積とは恐ろしいもので、 何十年もの間 入れ替わり立ち替わり床にかけられる幾多の禅語を見てくると、その含蓄はジワジワと我が身の内に入り込み、染み付き、ひいては思考回路が禅的になってくるから不思議です。 
一種の洗脳でしょうか。
  

 

放下着(ほうげじゃく)

 

窮地に陥ると、私がしばしば噛みしめ 救われてきた禅語です。

〈放下=捨てる 着=これ自体には意味がなく その前にある語を強める助辞〉  

 

ある時 修行僧が趙州禅師に「修行の末 一切のものを捨てきった私は これから先どのような修行をすればよいのでしょう?」と問うたところ 禅師は直ちに 「放下着」 即ち「一切のものを捨てきったという思いさえも捨て去れ!」と一喝なさったそうです。

 

禅は悩ましい問題に心奪われ 身動きがとれなくなってしまうほどバカバカしいことはない・・・と教えています。  自由無礙な状態に保たれた心は 柔軟な発想や方針の転換に即妙に対応できますから、 行き詰まりを感じたら「放下着」 

執着している問題を全て捨て去り、出発点の無に立ち返えることに成功すれば 無一物中無尽蔵 の状態となって 次なる可能性は無限大に広がります。  捨て去るべきは 自らが自らに課した価値観や規範であることが多く、案外 簡単に見つけられるものですよ。

だって人間は 本来無一物 ですから。

 

見方によっては「柔軟にして適応力あり」 また別の見方をすれば「一貫性がなく変わり身がはやい」ということになるのかもしれません。 もちろん 過去の蓄積・物欲・金銭欲・出世欲などに対する執着、その全てを否定するものではありません。 何でもかんでも「放下着」では 努力と無縁になって「放下着」=「意志薄弱」ということになりかねませんもの。  私は「心病むまで執着して 自らを追い込むことはない」という程度に理解しています。  

 

禅については、余りにも奇怪な公案に驚いて「このインチキ宗教~!」なんて声を上げる方もいらっしゃいますが、 公案や偈頌に対する理解の深浅は 修行の度合いによって個人差があり、 レベルに応じた理解ができていれば良いようです。  私は厳しい修行に耐え抜いて行き着いた悟りではありませんから、 一切のものを捨てきったという思いをも捨てられるほど練れてはいませんが、  市井にあっては 人間臭い迷いを残しておくのも 可愛げがあっていいのかな~なんて勝手に思っています。  

 
放下着


放を他動詞    その後ろを目的語と考えることなかれ。 学生時代によく勉強した人ほど犯してしまいそうな間違いですが これをすると 意味が全く変わってしまうのでご注意召されよ!!

 

説似一物即不中

「前の先生は・・・とおっしゃいました」は禁句です。

表千家のお茶の指導は口伝が中心ですから、先生によって微妙におっしゃることが違います。親子であるにもかかわらず、剛先生と雅彦先生の間でも多少違っています。
この指導法では、家元が発信したことを何人もの人を介して伝えていくうちに、裾野では大きく違ってしまった・・・ということも起こりえます。

稽古場で、新しい先生のご指導を受ける場合、「以前師事していた先生は・・・とおっしゃいました」は禁句です。澤井先生は20年以上修業を続けておられ、家元から発信される事柄を正確に取り次ごうと努めていらっしゃいます。確信のもてないことは声にしませんし、稽古の場にのせることもありません。

また仮に、「前の先生はそんなことを言ったのか。大きな間違えだ。」と心の中で思ったとして、その思いをそのまま皆様に伝えることはありません。なぜならそれは、皆様が師事した先生を公然と批判することにつながるからです。

稽古場では、静かに先生の言動に心を傾けて下さい。言葉がなくても、きっと何かが見えてきます。

それでももし前の先生を思いつつ、どうしても聞きたいことがあったなら、先生が本心を吐露し易い環境と言葉を選んでお尋ね下さい。

和敬清寂


利休は「和敬清寂」の四字をもって茶道の本旨としました

和・・・やわらぐで、睦まじくして柔軟であること

敬・・・敬い慎む心

清・・・清浄にして汚れのないこと
   心身はもちろん、道具、茶席、茶庭、料理、談話に至るまで
   汚れのないこと

寂・・・俗世を離れて静かで妄念のないこと
    すなわち悟りの境涯


「茶の湯は台子を根本とすることなれども、心の至るところは草の小座敷に如くことなし」

「小座敷の茶の湯は第一仏法を以て修行得道することなり、家居の結構、食事の珍味を楽しみとするは俗世のことなり」

利休さんのおっしゃるこのことが本当に理解できたら、道具の良し悪し、点前の上手下手をこえて心の通い合ういいお茶になると思う昨今なのであります。

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◆表千家教授 
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